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彼女に僕のゴールを応援してもらえません。どうしたらいいですか?〜そしてついに征服する、自己を。〜


真に誰かに認められたければ、自らのゴールに忠実に生きることです。
 
そもそも現状の外側にゴールを設定すること自体がまだまだマイノリティな社会ですから、現状の外側の発想や行動、判断などに対して賞賛されるはずがないのです。
 
だからこそ、人にゴールを言わず、語らなくて良いのです。語っている暇があったら、愚直にゴールに向かって進めば良いのです。
 
誰かに分かって欲しい、誰かに認められたい、誰かにかまって欲しいといった発想は、ゴールに対する目を曇らせ、いつしかゴールが見えなくなり、HAVE TOな雰囲気を醸し出し始めます。
 
誰かに分かって欲しいというゴールを設定するのは、それはそれで別に止めませんが、そのような低いゴールに報酬系は発火するはずもありませんし、神経科学で定義するところの「幸せ」を我々の脳が感じることはありません。
 
誰にも理解されずとも、ただひたすらにゴールに向かって突き進んでいれば良い話です。そうすれば、圧倒的な結果を出すことができますし、そうしたとき初めて、誰かに認められればいいと思います。
 
そしてその頃には、誰かに認められることそのものに喜びなどなく、いかにどうでもいいことかということに気づきと思います。
 
結果が出ない場合は、出るまでやればいいですし、結果が出せるかどうか不安なのであれば、辞めればいいと思います。結果などのことはさておき、心からやりたいことがゴールです。
 
無意識に潜む「分かってもらいたい」「認めてもらいたい」といった情動を意識に上げて書き換えることです。BRAIN WORK OUTでも、この辺りはきちんと精査して行ないます。
 
マズローのいう「承認欲求」など、幼稚な子どもの欲求であるということが理解できれば、ゴールは思いの外たくさん出てきます。(子どもは認められるために、分かってもらうために泣いて喚いて駄々をこねますが、基本的に承認欲求です。)
 
そしてもっといえば、その分かって欲しい「誰か」など、実はほとんどの場合あなたの人生にそれほど興味を持っている訳ではなく、その「誰か」のホメオスタシスの検閲に引っかかったものを半ば自動的に批判したり、注意したり、意見したりするだけです。
 
ドリームキラーなど抽象度の低い単なるクリエイティブ・アヴォイダンスという生理現象です。
 
DAISUKEKOIDE.COMも、そういった意味ではかなりマイノリティであることに間違いはないですし、そのクライアントさんもご多分に漏れず、超の付くマイノリティなのです。
 
現状の外側にゴールを持とうという試みは、ある意味で革命家です。
 
チェ・ゲバラやキング牧師や、スティーブ・ジョブスやイーロン・マスクや釈迦やキリストの住む世界です。いつの時代も、現状の外側とは時には命すら狙われるような人々のクリエイティブ・アヴォイダンスに遭遇するということです。
 
そういう世界に生きることに真に幸福を感じ、生きることがルータイスの言うとおり「Not Normal」です。
 
例えば、このような相談を頂くこともあります。
 
「彼女に僕のゴールを応援してもらえません。どうしたらいいですか?」
 
他のコーチの方はどのようにおっしゃるかわかりませんが、DAISUKEKOIDE.COMでは、「じゃあ諦めれば?」と一蹴します。
 
彼女に応援されたいのなら、応援されるようなことをやればいいですし、それがゴールならそれを否定することはできないからです。(いやもちろん、もうちょっと優しめには言いますがwww)
 
ドリームキラーはドリームキラー同士で足を引っ張って生きていますし、さらに社会的な洗脳によって、それが善いことであると刷り込まれている以上、彼らを責めることもできないと思います。
 
そのような世界がこの世界なのだと知れば、逆に自分のゴールに対して真摯に生きることができるかと思います。
 
進撃の巨人、ミカサ・アッカーマンは叫びます!
 
この世界は残酷・・・でも、美しい
 
そのような世界を理解し、それでも自分のゴールに忠実に生きるとき、真の意味での仲間に遭遇します。
 
そのような質問を頂くたびに、師匠に教えて頂いた小林秀雄さんの一節を思い出します。
 
先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていてが、そのなかに、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。
 
カメラを意識して愛嬌笑いしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。
 
どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情だが、闘志などという低級なものでは、とうてい遂行し得ない仕事を遂行する顔である。
 
相手に向かうのではない。そんなものはすでに消えている。緊迫した自己の世界にどこまでもはいって行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、しかし征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手だけでしょう。
 
選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そしてついに征服する、自己を。かようなことを選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。
 
見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現わす。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。
 
彼らは征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼らは言うだろう、私たちは戦う、しかし征服はしない、と。私は彼らに言おう、砲丸が見つからぬ限り、やがて君たちは他人を征服しに出かけるだろう、と。また、戦争が起こるようなことがあるなら、見物人の側から起こるでしょう。選手にそんな暇はない。
 
引用終わり
 
私の人生観(小林秀雄著)
 
この文章は個人的にもとても好きで、口に出して何度も何度も読む程に好きです。
 
真にゴールに生き、真に幸せを感じるものとは結局、「自己の征服」に全てを費やします。
 
小林先生は、「投げるべき砲丸を持たぬ者」を「醜い顔」と一蹴します。そして、「投げるべき砲丸が見つからぬ限り、やがて君たちは他人を征服に出掛けるだろう」と遠い目で呟きます。認知科学的にも整合性のとれる見事な見解であり、美しい文章です。
 
我々も、日々投げるべき砲丸を見つけ、自己を征服に掛かり続けましょう!他人を征服することに人生を費やすのではなく、自己を征服することに人生を使って生きていくとき、私たちは本当の幸せを感じるものです。それが脳のカラクリです。
 
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